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宮地天満天神宮の由緒と歩み

― 秩父の祈りと学びをつないできた、古き天神さま ―

宮地天満天神宮は、

天正二十年(1592年)ごろに創建されたと推定される、秩父市内でもとくに古い天神様です。
また秩父では太宰府天満宮より正式な分霊を授かった唯一の天神さまです。

この「1592年前後」という年代には、次のような歴史的な裏付けがあります。


梅の古木が語った“創建の手がかり”

昭和初期、この天神宮のすぐ脇にあった一本の梅の古木の調査が行われました。

秩父神社の三十二代宮司、そして年輪鑑定の専門家が立ち合い。

その梅の年輪を調べたところ――

およそ1592年ごろに芽吹いた木であると推定されました。

菅原道真公は梅をこよなく愛し、たくさんの和歌を詠まれています。
梅の木は、道真公の象徴として古くから天神様を祀る神社には植えられてきました。

その梅の古木が天神宮の境内にあったこと、

そして年輪の年代が歴史の動きと重なることから、

この時期に宮地の地で天神信仰が整えられたと考えられるようになりました。


激動の秩父。寺社が焼失した1569年(武田信玄の侵攻)

この梅の年代の少し前、

1569年に武田信玄が秩父に侵攻し、秩父神社や廣見寺などの寺社が焼き尽くされました。

地域の信仰基盤が大きく失われ、

その再建は秩父の人々にとって急務となりました。


徳川家康の関東入国と「結界の再構築」

その後、1590年、徳川家康が関東に入り、

江戸を整えるにあたり天文や暦、方位などの陰陽道が取り入れられました。

特に重要視されたのが江戸から見て関東の

「鬼門(北東)」「裏鬼門(南西)」を守る寺社の配置

秩父は、関東全体の結界ネットワークの中でも

要となる土地であったため、

この時期に大きく整備が進められます。

  • 1590年 廣見寺・今宮坊(現 今宮神社)などが徳川家から朱印地を与えられる
  • 1592年 秩父神社が現在の番場町に移され再建される

そして、この「秩父神社を守る鬼門」の位置にあたったのが、他でもない宮地でした。


宮地は“聖なる場所”

宮地の地には

  • 秩父神社の旧鎮座地だったという伝承
  • 妙見信仰に関わる七つの井戸が残ること
  • 神体山である武甲山へ繋がる羊山の峰がこの地に届く霊的地形

といった背景があり、古くから“聖域”として認識されてきました。

こうした理由から

秩父の結界を再構築するうえで、宮地は非常に重要な場所だったと考えられます。

1590年代、徳川家康による陰陽道による関東の結界構築。それに伴う秩父の結界構築。 また民衆のさまざまな願いを受け止めるために

寺社や天満宮や稲荷社などの整備や建立が行われました。

その流れの中で、宮地の地に天神様がお祀りされ、

境内の梅が芽吹いた1592年前後とも見事に年代が重なります。

まさに、歴史と自然が語る“創建の根拠”と言えるでしょう。


天保の大飢饉と再建(天保十三年・1842年)

江戸時代後期、

1833年から1837年にかけて起こった「天保の大飢饉」は、

全国的な大凶作を引き起こしました。

秩父も例外ではなく、

多くの人々が困窮し、

大人だけでなく、たくさんの子どもたちの命も失われるという、

非常につらい時代を迎えました。

そうした苦難の中で人々が頼ったのが、

学問・正義・誠実の象徴である菅原道真公でした。

「災厄が鎮まりますように」

「子どもたちが健やかに育ちますように」

その切実な祈りを込め、

天保十三年(1842年)に宮地天満天神宮は再建されました。

この再建は、

ただ建物を直したということではなく、

未来を生きる子どもたちの命と希望を守るための祈りの場を、 もう一度立ち上げた出来事でした。


神社合祀令と「お帰り」の物語(明治42年〜45年)

明治時代後期、

国の方針により「神社合祀令」が出され、

全国で多くの小さな祠や神社が姿を消しました。

明治四十二年(1909年)

宮地天満天神宮も例外ではなく、

地元の信仰を絶やさぬよう、

秩父神社の境内へ遷座することになります。

しかし、この土地で天神さまを守り続けてきた人々は、

その信仰を失うことはありませんでした。

そして明治四十五年(1912年)

秩父神社の境内にお祀りされていた天神さまのご分霊をいただき、

ふたたび元の地・宮地へ。

人々はこの出来事を、

今でも親しみを込めて

「天神さまがお帰りになった」

と語り継いでいます。


関東大震災と再生の祈り(大正十三年・1924年)

大正十二年(1923年)、関東大震災が発生。

日本全体が深い不安と混乱の中にありました。

その翌年、

「もう一度、地域を立て直そう」

「知恵と努力で未来を切り開こう」

そんな想いのもと、

大正十三年(1924年)に社殿が再建されました。

菅原道真公は、

知恵・努力・再生の象徴でもあります。

この再建は、

震災からの復興というだけでなく、

地域の人々が自らの信仰を取り戻し、 未来へ向かう決意を形にした出来事でした。


昭和六十一年 ー 太宰府天満宮より正式な分霊を授かる

昭和六十一年(1986年)

社殿改築にあたり、

宮地天満天神宮は総本宮・太宰府天満宮を正式に訪れ、

改めてご分霊を授かりました

これは、

新たに天神様をお迎えしたという意味ではありません。

長い歴史の中で、

この地にはすでに

人々の祈りによって育まれた「天神さまの霊的な基盤」がありました。

その確かな信仰の積み重ねを背景として、

太宰府天満宮より正式な分霊を授かることで、

宮地天満天神宮のご神徳は、

より強く、より明確な形で結ばれたのです。

これは、

四百年にわたる信仰が正当に認められ、 太宰府と宮地の祈りが正式につながった証ともいえる出来事でした。


年表で見る 宮地天満天神宮の歩み

  • 永禄十一年(1569年) 武田信玄の秩父侵攻により多くの寺社が焼失
  • 天正十八年(1590年) 徳川家康の関東入国、徳川家康より秩父の複数の寺社に朱印地が与えられ「秩父の結界再構築」が始まる
  • 天正二十年(1592年) 秩父神社が番場町に移築され再建
  • 天正二十年頃(1592年) 境内の梅の年輪年代と重なり、宮地天満宮はこの頃の創建と考えられる
  • 天保十三年(1842年) 天保の大飢饉を経て、人々の祈りにより宮地天満宮再建
  • 明治四十二年(1909年) 神社合祀令により秩父神社境内に遷座
  • 明治四十五年(1912年) 分霊を受け、元の地・宮地へ「お帰り」
  • 大正十三年(1924年) 関東大震災後、復興への願いを込め社殿再建
  • 昭和六十一年(1986年) 社殿改築。太宰府天満宮より正式に分霊を授かる
  • 令和 子どもたちの未来を照らす学びの神さまとして次世代へ